残念だったこと2011/08/21

燕稜線は高山植物の宝庫
 今回の燕岳行で残念に思ったことを、ふたつ書いておこう。

 ひとつは、山を知らない登山者が増えていること。
 これは、第三ベンチで出合った「自分がどこを歩いているかも分かってなかった若者」のような、「地理的に無知」と云う意味もあるが、そもそも、「山がどう云うところか?」が分かっていない登山者の、何と多いことか・・・
 例えば、「平気でロープを跨いで、コマクサの群生地に入り込む若者」
 13日のブログにも書いたように、こんな光景は、下界の公園なんかでもよく見かける光景である。
 下界の公園では、「芝生に入らないでください」と書かれた看板さえ無視して、ロープを跨いで芝生に入り込んで、寝転がったり走り回ったりしている若者や親子連れは、決して珍しくはない。
 そして、あえてそれを注意する人も滅多にいない。
 それと同じ感覚で、登山道に張られたロープを平気で跨いで、立ち入り禁止区域に入り込む。
 彼らの中では、両者は全く同じ行為であって、公園では注意されないのだから、山でも特に問題ない、と思い込んでいるのだろう。
 つまり、都会の頭のまま、山に登って来ているのだ。
 頭(理解)が山モードに切り替わっていない・・・もっと云えば、山モードの頭(理解)そのものを、持ち合わせないまま、都会の生活の延長線上で山に来ているのだ。

 都会の公園の芝生は、多少踏み荒らされても、張り変えれば緑の芝生に戻すことができる。
 そのために、大変な苦労をされる方がいるのは事実で、その方々には申し訳ないが、公園の芝生なんてものは再生可能なのだ。
 ところが、山(自然)の植生はそんなものではない。
 特に、高山植物のように、非常に限られた環境条件でしか育たないものは、一度踏み荒らされてしまうと、もう、元には戻らないのだ。
 「ロープを跨ぐ」と云う行為は同じだが、その結果は、公園の芝生と山とでは全く異なることを、どれだけの登山者が理解しているだろうか?

 都会ではある程度許せる行為でも、山や自然の中では絶対に許せないことがあることを、もっともっと理解した上で、山に入ってもらいたいと思う。

 また、こちらは「絶対許せない」と云うわけではないが、やはり、「山への理解不足」からくるケースをもうひとつ揚げておこう。
 これは、燕山荘での話である。

 私が部屋で休んでいると、突然、大声で叫びながら、通路を、ドタバタと男の子が走ってきた。
 すると、暫くして、別の子どもが数名、追いかけるように走り去った。
この時は、カーテンを閉めていたので、直接顔を見たわけではないが、声の調子では小学校低学年くらいだろうか・・・どうやら、鬼ごっこでもしているのだろう。また暫くすると、反対側から、ドタバタと戻ってきて、私の足元を通り過ぎた。
 カーテンから顔を出してみると、大人たちの間をすり抜けて走り去って行く3人の男の子の後姿が見えたのだが、私がここで不思議に思ったのが、この時、沢山の大人たちが傍にいたにも関わらず、誰ひとり、注意していなかったことだ。
 注意するどころか、どこかのオバはんは、走り去る子どもを笑顔で見送っている。
 まるで、「元気で良いわねぇ」とでも云わんばかりの、満面の笑顔だ。

 こんな場面も、観光地のホテルなんかでは、よく見かける光景だ。
 楽しみにしていた家族旅行で、広いホテルに興奮して、はしゃぎ回る子ども達。
 「静かにしなさい」と窘めながらも、本人もウキウキ気分のお母さん。
 確かに、見ていて微笑ましくもある光景ではある。
 しかし、それは、ある程度、防音設備も整っているホテルだから云えることであって、ここは山小屋である。
 防音設備どころか、扉さえない部屋で、中には、疲れて休んでいる人も少なくないだろう。
 そんな場所で、大声で叫びながら走り回るなんて、例え子どもと云えども、決して黙認できることではないのに、注意しようとしない大人たち・・・
 そして、そんなことも指導できないで山に連れてくる親もまた、「山を知らない」困った登山者たちだ。

 足音と云えば、もうひとつ・・・
 山小屋の中を、平気で、大きな足音を立てて歩く人も、これまた困ったものだ。
 見ていると、わざわざ、膝を高く上げて、行進でもするかのように「ドスンドスン」と歩いているバカも少なくない。
 「山小屋では、なるべく足音をたてないように、摺り足気味に歩くように・・・」
 私は、子どもの頃に伯父から教えられたマナーを、今でも忘れず守っているが、あの連中は、一体何を教わって山に来ているのだろう?

 最近は、何とか云う世界的な女性クライマーが、テレビや雑誌、書籍なんかで、やたらと「登山ブーム」を煽っているが、私から見れば、いい迷惑だ。
 彼女が盛んに宣伝している富士山が、今どんな状況になっているかを見れば、一目瞭然だ。
 「観光地」「レジャースポット」化した富士山は、もはや「山」とは呼べない状況まできている。
 本当に山を愛しているのなら「山に登りましょう」と云う前に、もっともっとやるべきことがあるのではなかろうか?
 何れにしても、「山を知らない登山者」が増えていることが、私には残念でならない。

 もうひとつの、残念なこと・・・

 それは、今回、東沢コースを下っている時に感じたことだ。
こちらのコースは、距離も長いし中房川の渡渉などもあって、合戦尾根コースと比べると、決して一般的なコースではない。
 つまり、こちらのコースを歩く登山者は、それなりに登山経験があり、山や自然への理解度も深いものと思っている。
 当然、山でのマナーも良いに違いない。
 ・・・と、思っていたのだが・・・
 私が気付いただけでも、3本のペットボトルが、登山道から外れた下草の間に捨てられていた。
 これには、本当に幻滅した。
 あれほど大勢の登山者で賑わう合戦尾根では見かけなかったゴミを、こんなに静かな山道で見つけるなんて・・・

 「山を知らない登山者」だけでなく、「山をよく知る登山者」でさえ、山でのマナー低下が進んでいるのか!?

 今回の燕岳登山は、いろいろと考えさせられることが多かった。